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2006年06月09日

「中世の狂いと舞」考

(一年前にあるブログに書いて削除したと思い、そのまま放置していた文章。見つかったのでこちらへ再掲する)


能「三井寺」で狂女が狂言の頭を後ろからポカリと叩く場面がある。ぼくにとってこの場面は、中世に存在し今はもう消えてしまった「狂い」の質を垣間見せてくれる興味深いものである。
中世には受容されていた「狂い」。それは今日の精神病とは全く異なる。能に言及する多くの論者が説明していることなので繰り返さないが、至極簡単に言ってしまえば、それは執心から発した発作的・一時的な忘我状態である。「三井寺」では何の前触れもなくいきなり頭を叩くという行為から狂女にも物狂いなりの論理が存在することが透けて見えてくる。正常な者ならば丁寧に声をかけるところを狂女は頭を叩くのである。子を探す母の執心も表現し切っていることを思えば、この場面での劇としての能の表現力のすさまじさにただ驚くばかりである。
フーコーを持ち出すまでもなく「狂い」が監獄・病院などへ閉じ込められるようになるのは近代近くになってからである。そして、囲い込まれることによって単なる「狂い」が「精神病」に深化するのも近代以降であろう。それまでの世では、もちろん物狂いは往来で頻繁に目にすることが出来たし、「ちょっとおかしな奴」くらいの認識しか持たれていなかった。

僕の予想するところでは、おそらく600年前の当時の旅芸人のなかにはこうした「狂い」の忘我状態を歌舞にとりいれて興行した者がいたに違いない。初期の世阿弥も物まねを最高の表現法と考えている。観阿弥までの時代の垢抜けない物まねの申楽において鬼、男、女や老人にまじって物狂いが表現の対象となっていたとしても全くおかしくはない。そして後に述べるように物狂いの舞は当時では人気の、と言って悪ければ物珍しい歌舞だった。
ほとんど乞食の次くらいに卑しいとされていた芸人。白拍子は男性の格好をした芸人で、彼女らは舞手であると同時に夜をひさぐ売春婦でもあった。すぐ思いつく最も早い時期の白拍子といえば、清盛の寵愛を受けた妓王と仏御前がいるが、妓王は典型的に白拍子の身の浮き沈みの哀れさを表している。
能「隅田川」の狂女はまさしくこうした白拍子上がりの女ではないかと思われる。人商人にかどわかされた梅若丸の父について全く言及されていないのは、そうした背景が自明のことだからだろう。子を求めて一人、母は東国へ下ってゆく。

問題の場面は隅田川までやってきた母が舟人から舞を要求されるところである。ワキが渡し舟に乗り込もうとするときに辺りが騒がしくなって狂女が現れる。詳しく描かれていないが、ここは母が行き会う人毎に我が子の消息を尋ねて回っていることによる騒ぎであろう。つまり、母は子を探すに熱心なあまりなりふりかまわぬ態となっている。そして渡し守までやって来て舟に乗せろという。そこで舟人ははじめて「物狂いはおもしろく舞うものと聞いているので、ひとさし舞ってくれれば舟にのせてあげよう」と条件を出すわけである。このことから当時の巷間に「狂人の舞」なるものが見事であるという噂がまことしやかに語られていたことがわかる。
ところがこれは上記の「狂人を真似た旅芸人の舞」が本来の出所であって、狂女=舞の名人、では決してなかったのではないだろうか。能「隅田川」に関して言えば、狂女がたまたま元白拍子であったというに過ぎないと僕は考える次第である。

それはまた、別の面からも推理することが出来る。いくら忘我状態になった人間とはいえ、意味もなくそこら辺の空き地で踊っているだろうか。つまり、踊りを踊る以上そこには観客がいるのが当然であり、観客がいるということはその踊りは興行・見世物であるに違いない。そしてそれが興行であるからこそ、巷間に上るほど周知しているのである。素人の狂人の単発的な踊りが芸として見ごたえがあるものとなるとも、噂になるほどの広がりを持つとも思えない。それは組織的な旅興行の一座が出し物のレパートリーとして定着させることによってはじめて認知されたと考えるほうがはるかに自然である。
そして、であればこその「狂女の舞」なのである。