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2006年05月13日

『花伝書』川瀬一馬校正・訳


花伝書』川瀬一馬校正・訳


川瀬一馬氏の論は首尾一貫して『花伝書』を観阿弥の芸術論とし、これに混入された世阿弥の持論は正確に観阿弥のそれとは区別されると述べる。

この点で、懐奘が道元の言葉を筆録した『正法眼蔵随聞記』や唯円が親鸞の正当性を頒布しようと著した『歎異抄』とおなじスタンスで書かれた書物であると言えよう。

卑俗な滑稽物まねを主とする大和申楽出身の観阿弥が、舞踊へと傾斜していく当時の芸能社会の趨勢を自覚し、曲舞(くせまい)を手がかりに物まね芸を精錬する方向で芸を完成させていく姿の論述は圧巻としか言いようがなく、純粋に知的興奮を与えてくれる。
訳書の小さな解説とはいえ、その論証は無駄がなく的を得ている。


これを元にぼくなりに少々考えたことを記しておきたい。
花伝書』の創作環境と同様のことは世阿弥によって手を加えられている観阿弥の作品「自然居士」についても言えることである。

当時の世相を強く反映するストーリーと、終盤の居士による曲舞の披露へと至る人商人たちとの少々牽強付会な押し問答の展開も、観阿弥の作風と思想とをよく表しているだろう。

この点、複式夢幻能を完成させ幽玄の極北に到達してしまった世阿弥のそれとはあきらかに区別されるものであり、いかにも泥臭い実地から積み重ねて大成した経験論者観阿弥の側面が明らかである。

世阿弥において能は次の段階では衰退に向かう他ないところまで磨き上げられ、もうどこにも行き様のない完成をみせている(これは元雅の作風とその夭折の悲劇にも象徴される)。一方、観阿弥においては能のエートスはいまだ成長の過程にあり、自由で楽天・健康的な期待感を内包している。

花伝書』を包むのはそうした空気である。ぼくがなぜか「自然居士」に惹かれるのは、そうした申楽成長期の幸福な息吹を感じ取れるからかもしれない。

現在ぼくたちの目の前に披露されている能はもうずいぶん以前に既に終わったことだ。花が散り際に残した微かな香りだけがぼくらに伝えられたものである。
そんな諦念を噛み締めながら能楽堂の席に身を落ち着けるとき、「自然居士」はいつまでもなつかしい郷愁を引き起こしてくれる作品である。
そして『花伝書』は600年前、極限まで芸と人間存在を透徹した眼で見続けた二人の天才が確かに存在したことを実感させてくれる稀有な記録なのである。